2015年10月28日水曜日

三沢市の納屋集落群(1)

三沢市の納屋集落群(1)|地理・地形・地名についての備忘録
 
 三沢市の太平洋岸には間隔を置いて集落が点在している。
北から天ヶ森、砂森、塩釜、織笠、六川目、細谷、淋代、五川目、四川目、鹿中、三川目があり、おいらせ町の二川目、一川目と続く。
これらの集落は江戸期に地曳網漁を営むための納屋(漁を行うための小屋)が設置され、季節的な居住が発生した後に、漁民が定住化した納屋集落と呼ばれるものである。
いずれも小さな沢が海に流れ込む場所に家屋が建てられている。
各集落の定住が始まった詳しい時期は不明であるが、「川目」の数字の順に南から定住化が起こったことが地名から想起される。
なお、天ヶ森と砂森は航空自衛隊・在日米軍の天ヶ森対地射爆場の、四川目と五川目は三沢基地の騒音問題で集団移転しており、現在は無人となっている。
当地を含む八戸市鮫から六ヶ所村泊の間は、淋代海岸なる砂浜海岸が広がっている。
八戸湊の北に位置することからか、通称で「北浜」と呼ばれている土地である。

 地曳網漁ではイワシを主に採っていたらしい。
豊富な資源量を活かし、窒素質肥料である鰯〆粕の生産を行なっていた。
夏でも寒風が吹き荒れる当地においては、食糧生産における重要な意義を背負っていたのだろう。
イワシ漁は次第に活気を帯び、江戸から明治に時代が移る頃に最盛期を迎えていた。
漁村的性格の強かった北浜の納屋集落群が転機を迎えさせられるイベントが1896(明治29)年に発生した。
明治三陸大津波である。
漁撈を生業としていた集落群は作業の効率性から海岸線に極めて近い位置に住居を構えていたため、津波により壊滅的な被害を受けた。
当地で定住が営まれてから初めての大津波であるため、対策は為されていなかったと思われる。
津波高が大幅に上がるリアス式海岸の湾内とともに、津波の影響を強く受けてしまうのは納屋集落の宿命とも言える。
納屋集落の代表例としてよく取り上げられる千葉県の九十九里浜についても、津波による壊滅被害を歴史に幾度と刻んできた。
明治三陸大津波を機に、海岸線の後背にある微高地へと集落が後退した。
大正期にかけて、漁獲高が徐々に減少していくにつれ、漁業一辺倒であった北浜の納屋集落群は半農半漁の様相を呈するようになる。
集落の後退は、津波被害からの回避が主因であったが、副次的に畑作適地である火山灰土の台地への接近に向かわせた。
稲作文化の日本において、畑作に適していようとも台地は人間の生活が営まれる空間になり難かった。
台地が卓越する青森県東部はかつて人口希薄な土地であった。
納屋集落の漁民が新たに家屋を置く土地、また畑作を営む土地はその背後に無限のように広がっていたのである。

 季節的な漁撈を目的とする納屋(小屋)群が、次第に豊富な漁獲高を背景に定住漁村へと姿を変え、津波襲来による家屋の移動で漁業だけではなく農業にも収入の糧を見出す集落へと変貌していくまでを記してみた。

 明治から現在に至るまでは、別稿に記したいと思う。

<参考資料>
『角川日本地名大辞典 2 青森県』, 昭和60年, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会, 角川書店
三陸海岸の集落 災害と再生:1896, 1933, 1960」, <http://d.hatena.ne.jp/meiji-kenchikushi/>, 2015.10.28閲覧